【阪神ドラフト選手特集・鈴木勇斗(2)】救われた広島・黒田の座右の銘「耐雪梅花麗」
10月のドラフト会議で阪神から指名を受けた8選手(1~7位、育成1位)の連載をお届けする。2人目はドラフト2位・鈴木勇斗(21)=創価大=がプロ入りの扉を開くまでの道のりを振り返る。
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「耐雪梅花麗」-。鈴木と同郷・鹿児島の偉人で西郷隆盛が詠んだ漢詩の一節として知られる名言。厳しい冬の寒さに耐えてこそ、美しい梅の花を春に咲かせることができるという意味で、鈴木は座右の銘にしている。
「この言葉に出会ったから、高校で頑張ることができたんです」
鹿屋中央高2年の冬、心が折れそうになっていた。「野球をやってきた中で一番苦しかった。悩んだ時期ですね」。理由は冬の練習量の多さだった。
早朝5時から10キロ走が日課。学校で授業を受けた後、午後からも300メートル走10本以上で足腰の強化に励む。疲労が残る中で投げ込みや振り込みを行い、ウエートトレーニングするという野球漬けのサイクルだった。
走り込みが苦手だった鈴木にとっては、苦痛の日々。当時の鈴木は制球難に苦しんでいただけに、同校の山本監督も「(鈴木が)我慢しているのでは」と感じていた。心身ともに疲弊しつつあったが、そんな時に偶然、広島・黒田の特集番組を見る機会があった。
上宮高時代は控え投手だったが、専大を経て広島のエースとなり、メジャーリーガーへたどりついた足跡が取り上げられていた。そこで「耐雪梅花麗」を座右の銘にしながら、苦難を乗り越えてきたことを知り、感銘を受けた。
「自分の苦しい時にすごく当てはまっていたというか、その言葉を見た時に頑張ろうと思って。力をもらった言葉なので、今も大事にしています」
山本監督にも「自分自身に負けるな」と発破をかけられてやる気に火がつき、厳しい練習に黙々と取り組んだ。2年秋からエースナンバーを背負っていたが、冬に土台作りをしたことで最速140キロ台後半を投げる選手に成長していった。
最後の夏は鹿児島大会4強。延長十二回1死満塁から鹿児島高の4番にサヨナラ適時打を許し、マウンド上で鈴木は涙をのんだ。スカウトからも注目される投手となっていたが、「プロに行きたいという気持ちはあったんですけど、まだまだ程遠いな」とプロ志望届の提出を見送った。
「一から頑張ってプロを目指そう」と決意し、数々のプロ野球選手を輩出してきた名門・創価大への進学を決めた。同大の名物トレでさらなる進化を遂げていく。
◆鈴木 勇斗(すずき・ゆうと)2000年3月17日生まれ、21歳。鹿児島県出身。174センチ、83キロ。左投げ左打ち。投手。小学3年から硬式野球チームの串木野黒潮で野球を始める。鹿屋中央では2年秋からエース。鹿児島大会4強が最高成績。創価大では2年からベンチ入り。最速152キロ。球種はスライダー、カーブ、チェンジアップ、ツーシーム。