吉田義男氏に聞いた伯父・三宅秀史氏のマル秘話 三宅伸氏念願 阪神鉄壁三遊間も秀史氏に“悲劇”

 吉田義男氏(右)と三宅秀史氏の甥の伸氏
 阪神・吉田義男、現役時代の守備
 大阪タイガース・三宅秀史=1960年、甲子園球場
3枚

 12月に掲載したデイリースポーツの企画「岡田監督へのエール アレが見たい!」で、岡田監督と同じ背番号『16』をつけていた三宅秀史氏(故人)の甥(おい)・三宅伸氏(53)=デイリースポーツ競輪評論家=に登場してもらった。伯父のことをよく知る吉田義男さん(89)=野球評論家=に会いたい-という伸氏の希望をかなえるべく、関係各所の協力を得て実現。“鉄壁の三遊間コンビ”を組んだ吉田氏が温かく、秀史氏のオモテもウラも語った。

 それぞれの家庭には他人には分かり得ない事情がある。三宅伸氏(以下、伸氏)の父・修さんは兄でありプロ野球選手だった秀史氏のことを息子にはほとんど語ることなく、今年6月、82歳でこの世を去った。

 伯父と同じ高校に通い、しかも野球部。進んだ道こそ違えど、同じプロのアスリート。書籍やネットでは語られていない、素顔の伯父を知りたい。そこで行き着いたのが、1950年代中盤から60年代初頭まで、阪神タイガースで“鉄壁の三遊間コンビ”を組んでいた吉田義男氏に会うことだった。

 街がクリスマスソングで満ちてきた12月21日。兵庫県宝塚市内のホテルで、憧れでもある“日本一監督”を迎えた。

 「三宅は僕と同期入団でね。年は私より1個下。甥に競輪選手がいるとは聞いてました。それもトップクラスでかなり強いと」とのっけから吉田氏に“先行”され、伸氏も恐縮しきり。さらに続く。

 「ファンの多い男でね。ようモテましたな。東京遠征に行くと宿舎から球場まで(球団が手配した)バスで行くんですが、当時はファンも一緒に乗ってきたりね。そこでも三宅は人気者でしたな」。ファンと一緒に移動とは何とおおらかな時代か。話は“脱線”。「京都の祇園辺りでの話ですな。随分と三宅に入れ込んだ女性もおったようですが、そういうのにも彼は実にスマートでね」。これには伸氏も苦笑い。

 53年の同期入団だが、吉田は1年目からレギュラーとして活躍。三宅は遅れること3年目の開幕から三塁に抜てきされ、ここから“鉄壁の三遊間コンビ”が誕生する。

 悲劇が起こったのがともに10年目のシーズン。62年9月6日、川崎球場での大洋戦(現横浜DeNA)。三宅はその前日に、700試合連続フルイニング出場を果たすなど、現代でいえば金本知憲ぶりの鉄人だったといえよう。

 「当時はね、大洋がバッティング練習をしている、その外野でわれわれがキャッチボールしていました。今考えると、それも危険ですわな。誰かが“危ない”って。てっきり大洋の選手の打ったボールが飛んできたのかと思ったら、三宅がうずくまっていて」

 実は他のキャッチボールをしていたボールが大きくそれて、それが三宅の左目に直撃した。結局、そのケガが原因で出場機会が激減し、67年シーズンをもって15年間の現役生活に別れを告げる。

 次は伸氏が語る。「僕が高校生のときに、一度学校に来ていただいたことがありました。でも秀史さんはグラウンドには入らず、外でボールを拾ってるんです。僕らがほったらかしにしてたボロボロのボールを。全部拾ったあと“君たちは野球をする以前の問題だな”ってひとこと言って帰られました」

 それには吉田氏もウンウンとうなずく。「新人のときは私が藤村富美男さんのバットを運ぶ用具係、三宅はボール係でした。最後にボールの数を合わせるのが大変やと思いましたが、三宅は最後の一球まできっちり拾うてきてね。そんな男ですわ」

 お互いユニホームを脱いでも“三遊間鉄壁コンビ”はフランスで復活する。「私がフランスで代表監督した(89~96年)ときに手伝ってもらいました。フランス人に野球を理解してもらうのは難儀しましたな、送りバントとか(笑)。三宅は料理もうもうてね、さすが瀬戸内育ちですな。市場で魚のエイをこうてきよりましてな。それを煮付けにしてもろて。そりゃ、うまかったですわ」

 それには伸氏も「父も魚をさばいたりするのは得意でしたね」と思い返す。若き日の秀史、修兄弟は穏やかな瀬戸内の波と戯れながら、魚を釣ったり食べたり、そんな少年時代を過ごしたときもあったのでないか。

 最後に記念撮影を-と並んでもらうと「あんたも野球選手に負けんくらい、ええ体格してますなあ。三宅もね、いつも節制してスマートな体形を保ってました。野球を離れても親しく付き合えた、最高の人物でしたな」。遠い存在だった伯父が、一瞬でも身近に感じたひとときだった。

 ◆吉田 義男(よしだ・よしお)1933年7月26日生まれ、89歳。京都府出身。立命大(中退)を経て、53年に大阪(現阪神)タイガース入団。遊撃手として活躍し、三宅秀史とのコンビで50年代中盤から60年代序盤の三遊間を支える。69年シーズン終了後に引退。その後は75年から3年間、85年から3年間、97年から2年間監督を務める。85年は21年ぶりのリーグ優勝を飾るとともに、チームにとって初の日本一をもたらす。現在は野球評論家。

 ◆三宅 伸(みやけ・しん)1969年8月13日生まれ、53歳。岡山県出身。岡山県立琴浦高(旧南海高、現在は倉敷鷲羽高)から日本競輪学校(現日本競輪選手養成所)64期生として89年3月デビュー。主なタイトルは08年12月の「G1・全日本選抜競輪(西武園)」。KEIRINグランプリ出場は3回。22年10月引退。生涯獲得賞金は10億8547万6931円。このたび本紙競輪評論家となり、30日のグランプリ(平塚)でデビューする。

 ◆三宅秀史(みやけ・ひでし)1934年4月5日生まれ。岡山県出身。南海高から53年に大阪(現阪神)タイガース入団、三塁手として活躍。守備の名手としてだけではなく、700試合連続フルイニング出場も果たす。これは04年に金本知憲が更新するまでのプロ野球記録だった。701試合目となる62年9月6日のケガで記録が止まりその後は低迷、67年シーズンで引退。その後は阪神で2軍監督などを務めた。21年3月3日心不全により86歳で死去。

関連ニュース

編集者のオススメ記事

阪神タイガース最新ニュース

もっとみる

    スコア速報

    主要ニュース

    ランキング(阪神タイガース)

    話題の写真ランキング

    写真

    リアルタイムランキング

    注目トピックス