同期の阪神・掛布雅之に三塁争いには負けたが、外国人らとの外野戦争に勝てたのは掛布のお陰~佐野仙好氏の猛虎回想禄
85年阪神日本一メンバーの佐野仙好さん(72)が16年の現役生活を振り返り、助っ人との“外野戦争”について語った。大勢の外国人選手と互角以上に渡り合えたのは、掛布雅之氏との激しいサード争いのお陰だったという。
佐野さんが本格的に外野へ転向した1977年から現役引退した89年まで新人、トレード移籍、新外国人ら“強敵”となり得る多くの外野手が入団してきた。
以下に記すのはその間に初来日し、プレーした阪神の外野手。
リロイ・スタントン、ブルース・ボウクレア、スティーブン・ラム、ダグ・オルト、ダン・ゴンザレス、ポール・デード、キム・アレン、グレッグ・ジョンストン、スティーブ・ストローター、ルパート・ジョーンズ。
全員が2年以内、中には1年足らずで帰国する選手もいた。ソロムコやカークランドのように長期間、活躍する選手は1人もいなかった。成功を収めたと言える選手がほとんど見当たらないのは、佐野仙好の高い壁にことごとく跳ね返されたからだ。
もう40年以上も昔の話になるが、現役時代を振り返れば必ず出てくるのが、ライバル関係にあった掛布雅之氏の名前だ。
「カケと競争したことで長く野球をやることができたし、外国人選手とのレギュラー争にも負けなかったと思うんです」
今でこそそう言って穏やかに振り返ることができるが、当時は生き残るために必死だったという。
73年オフのドラフトで中央大から1位入団したのが佐野さん。習志野高を出たばかりの掛布氏は6位入団だった。
同期だが4歳下の選手を練習で見たとき、「スイングスピードが速い」と感じた。ともに内野で三塁手。ポジションが重なり、それ以来はイヤでも意識するようになった。
二人は、「何をするにも一緒だった」という。打撃練習をするときも、ノックを受けるときも、ランニングをするときも…。
入団2年目。打撃コーチに就任した山内一弘氏が同じ合宿所の「虎風荘」に入寮し、それこそ24時間野球漬けの日々が始まった。内角打ちの名人に腕の使い方をみっちり仕込まれた。そばにはいつも掛布氏がいた。
「負けたくないという気持ちは自分にあったし、カケにもあったと思う。カケが打席に立つと“打つな”と思ったし、カケもそういう気持ちでいたはず。そういうお互いの気持ちが次につながっていったんでしょうね」
意地とプライドを賭けた“サード争い”は2年半に及んだ。
2年半…それは76年のシーズン中に外野へ転向することになったからだ。
「3年目(の途中)で外野に行ったということは、掛布に負けたということ。1つのポジションで1人しか出られないわけですから。でも自分にはプラスになったと思います。16年も(現役を)やれたんですから」
“プラス”とは外野戦争での勝利を意味している。
次から次へと、まるで刺客のように送り込まれてくる外国人選手。彼らとのレギュラー争いに佐野さんは勝ち続けた。それまでとは比較にならないほど、阪神の助っ人が外野に集中した時代。デカい男たちを力でねじ伏せていった。
アマ球界の新星も、他球団で実績を残したベテラン選手にも負けなかった。
勝負強い男。85年阪神日本一のクリーンアップを6番打者として支えた仕事人。しかし、3番佐野-4番掛布。そんな時代もあった。
掛布氏に遅れること1年。89年のオフ、佐野さんはライバル争いに感謝しながらユニホームを脱いだ。
(デイリースポーツ/宮田匡二)