理由、期待込めた“岡田節”とぶっきらぼうな優しさ 阪神1999年度ドラ1・的場寛一さんが振り返る

 現役時代の的場さん=2000年5月24日、甲子園
 松村邦洋(左)とポーズをとる的場さん
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 球団OBが阪神の日本一への期待を語る「先達からの伝言」(随時掲載)。今回は1999年度ドラフト1位(逆指名)で入団しながら相次ぐケガに泣き、2005年に惜しまれつつ引退した的場寛一さん(46)。入団直後から岡田2軍監督の指導を受け、同監督が1軍に昇格した04年以降はレギュラー候補として期待された秘蔵っ子だった。当時を振り返り、恩師が率いる古巣の悲願達成を願った。

  ◇  ◇

 兵庫・尼崎市で生まれ育ち、タテジマが憧れだった。現役生活は6年間。それでも的場さんにとっては夢のような時間だった。

 「ケガばかりで期待を裏切って、歯がゆい気持ちが強かったですね。でも、阪神でプレーできたことは今思うと信じられません」。デビュー戦は00年4月11日・巨人戦。満員となった甲子園のスタンド、大歓声は記憶の中で色あせていない。

 もう一つ、財産を得た。「私にとっての恩師です」。岡田監督との出会いだ。大型遊撃手として阪神に入団し、当時の岡田2軍監督の指導を受けた。

 「それまでの常識が変わりました。人とは違った角度で野球を見られる方で、多くのことを学びました」

 1年目の2軍戦。無死二塁で進塁打の二塁ゴロを打った。狙い通りだったが、岡田2軍監督に怒られた。

 「相手投手と的場の力を比較して、的場の力が下なら進塁打や送りバントのサインを出すけど『打て』ならヒットを打ちにいけよ」

 明確な理由と、期待を込めた“岡田節”。「信じてもらっていることが伝わりますよね。そうやって鼓舞してくれる。だから、当時の2軍はみんな岡田派でしたよ」と笑う。

 その岡田野球は今も変わらないと感じている。「僕らも言われた『普通のことを普通にやればええんよ』という野球をやっているので。どっしり構えているから、今年は阪神から崩れていくことがなかったですよね」。藤本、安藤、久保田コーチらかつての戦友の姿も頼もしく映る。

 恩師の人間性にも惹(ひ)かれた。1年目の2軍戦で打球を追ってフェンスに激突。体に明らかな異変があった。「プレーできます」と伝えたが痛みが増して交代。指揮官に「それぐらいで試合を降りたらあかん」と怒られた。

 ただ、検査で腎臓の出血などが判明して入院。後日、病室に1人の来客が入ってきた。「顔が見えないぐらい大きな花束を持っていて誰か分からなかったんですが、岡田監督でした。『早く治して戻ってきてくれ』と」。一見、ぶっきらぼうな指揮官の優しさに触れて背筋が伸びた。

 的場さんは岡田2軍監督が1軍監督に昇格した04年以降も期待されたが、04、05年はオープン戦で右肩を負傷。05年は首脳陣から「開幕ライトの有力候補」と告げられながらの離脱だった。恩返しできないまま同年オフ、ユニホームを脱いだ。

 今も年に一度は甲子園に足を運ぶという阪神ファン。「普通にやれば勝てると思います」。応援しかできなくても信じている。もう一度、宙に舞う恩師が見られると-。

 ◆的場 寛一(まとば・かんいち)1977年6月17日生まれ、46歳。兵庫県尼崎市出身。現役時代は右投げ右打ちの内野手、外野手。弥富(現・愛知黎明)、九州共立大を経て99年度ドラフト1位(逆指名)で阪神入団。通算24試合に出場。2005年に戦力外通告を受け、06年からトヨタ自動車でプレー。12年に現役を引退して社業に専念後、14年に退社。現在は「くつろぎカンパニー株式会社」代表取締役として、エステやアスリート支援に取り組んでいる。

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