【とらものがたり・大竹耕太郎投手編(6)】天国と地獄極端だった早大時代
阪神選手の野球人生に迫る新企画「とらものがたり」。現役ドラフトで加入し、12勝を挙げて大ブレークを果たした大竹耕太郎投手(28)の第6回。
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大竹は中学校の卒業文集に「早稲田大学教育学部に入学」と未来予想図を描いた。「あの頃は、斎藤(佑樹)さんが教育学部で書いたのかな。大学に行くなら早稲田だなって」。約3年後、済々黌を経て早大にスポーツ推薦で合格。野球部の推薦枠は、全国の高校から3人と狭き門だっただけに「まさか、推薦で入れるとは思わなかったな」と振り返る。
酸いも甘いも知った4年間だった。「極端だったね」と大竹は当時を思い返す。1年生から秋季リーグの初戦先発を託される存在で、有原(現ソフトバンク)や中村奨(現ロッテ)ら主力とともにプレー。2年生では主戦級投手として活躍し、春秋リーグ連覇、全日本大学選手権の3度で胴上げ投手となった。
順風満帆に進んできた大学野球が、一気に変化したのは大学3年時。左肩を故障し、その後、フォームのバランスなどを崩した。1年生の頃から神宮のマウンドで投げてきた左腕が、この頃から学生服を着てスタンドで応援をする日もあった。
「3年の春はちょうど、熊本地震も起こった時期と調子が悪い時期が重なった。本当に苦しかった」
当時、父・紳一郎さん、母・和子さんは春秋リーグ戦で数回、熊本から観戦に訪れ、ベンチに入ることができなかった時期も神宮に足を運んでくれた。心身共に苦しい状況の中、同じスタンドにいる両親の元に学生服姿であいさつに向かい気丈に振る舞うなど、暗い様子は見せなかった。
故障からフォームが崩れたことが不振の要因だが、大竹本人は「やっぱり気持ちの問題もあったと思う。技術の知識もないから、当時はどう直したらいいか分からなかった」。野球人生で初めてに近い壁。暗いトンネルから抜け出すために、光を探し続けていた。
「後半の2年間は全然、ダメだったと思う」と振り返るが、4年生はマウンドで復調の兆しを見せ、NPB球団のスカウトも視察に訪れた。学生生活としては最後の1年。大竹は、進路選択の岐路に立たされていた。