【阪神ドラフト選手特集・町田隼乙(上)】小2でサッカー始めるも1年で野球に転向
10月のドラフト会議で阪神から指名を受けた9選手(1~5位・育成1~4位)の連載をお届けする。今回はドラフト4位・町田隼乙捕手(21)=BC埼玉=が、野球を始めた小学生時代、プロへの可能性を見いだされた中学時代を振り返る。
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2003年4月3日、母・秀子さんの地元に近い青森県八戸市で隼乙は誕生した。前年12月に東京から八戸間で開通した新幹線「はやて」にちなんで名付けられた。2人の姉がいる末っ子の甘えん坊。運動神経抜群で、草ソフトボールをしていた父・光信さん(50)と3歳頃からキャッチボールで遊び、プラスチックのバットも振っていた。
横浜(DeNA)ベイスターズのファンだった両親の影響で、家ではナイターを見るのが当たり前。よく足を運んだ横浜スタジアムでは、阪神・金本知憲の2000本安打に心を奪われ、村田修一、筒香嘉智といったホームランバッターに「すごい」と目を輝かせた。
「プロ野球選手なりたい」とあこがれはあったが、「同級生でやってる子が多くて」と小学2年で始めたのはサッカーだった。しかし1年たって「やっぱり野球がやりたい」と自覚。小学3年から秦野ドリームスに入団した。初めは捕手ではなく投手、遊撃などを守ったが、小学4年生の時にチームの正捕手がやめ、捕手に指名された。当時の石井正宏監督(55)は「一番肩もあって適任だった」と振り返る。ただ、「最初はこわくて。『キャッチャーいやだな』と思っていた」と町田。それでも1カ月もすればすぐに慣れ、「盗塁を刺すことが楽しかった」と懐かしんだ。
プロへの可能性を見いだされたのは、硬式クラブチーム・平塚ボーイズでプレーしていた中学3年時。光明相模原の松崎元部長(44)から「プロに行ける」とスカウトされた。町田は「自分のどこが?」と思ったが、「体が大きい割には身のこなしが良くて、飛躍的に伸びると思った」と松崎部長。町田は初めて言われた言葉に心を動かされ、進学を決めた。
ただ、入部後は部員約100人の中に埋もれ、試合に出る機会は少なかった。課題は分かっていた。「どうやったら太るんだろうとずっと思っていた。若干コンプレックスだった」。高校1年では180センチで体重60キロ。捕手としては「140キロ超えるピッチャーもいたので、自分の力のなさがすごいいやだった」と引け目を感じていた。パワーがなく、中学でも本塁打を打った記憶はない。それでもやっぱり「飛ばせるようになりたい」とホームランバッターへのあこがれがあった。
その中で転換期となったのがコロナ禍だった。高校2年になってすぐ、部活も禁止となり自宅待機を命じられた。ただ、町田はそれをプラスに捉えた。「ここで変わるしかないなと思って」。ダンベルを父に購入してもらい、YouTubeで一から勉強してトレーニングに取り組んだ。
「家の中で腕立て、筋トレしたり外に走りに行ったり。心折れずによくやったなと思います」と母・秀子さん。朝食を抜くことも多かった食生活も改善し、おにぎりなどの間食を増やして5食に。一日で6合を平らげた。効果はすぐに表れた。約2カ月の自粛期間で6~7キロの増量に成功。「飛距離が変わって、逆方向にホームランが打てるようになった」と町田は振り返る。高校2年の秋には正捕手の座をつかみとった。翌年、1度目のプロへの挑戦を迎える。
【町田隼乙(まちだ・はやと)アラカルト】
◆生まれ 2003年4月3日
◆出身 青森県出身、神奈川県秦野市育ち
◆家族構成 父、母、姉2人
◆サイズ 186センチ、88キロ
◆血液型 A
◆投打 右投げ右打ち
◆球歴 小学3年から秦野ドリームスで野球を始め投手、遊撃手を経験。小4から捕手を務め、大根中では平塚ボーイズでプレーした。光明相模原を経てBC埼玉に入団。独立リーグ通算17本塁打
◆足 50メートル走6秒3
◆遠投 110メートル
◆ニックネーム マッチ
◆趣味 映画観賞、自然巡り
◆好きな芸能人 生見愛瑠
◆ペット 猫派で実家でも4匹飼っている
◆座右の銘 「花よりも花を咲かせる土になれ」、「捲土重来」