【阪神ドラフト選手特集・川崎俊哲】家族の思い、能登の思いを背負い、復興のシンボルへ
10月のドラフト会議で阪神から指名を受けた9選手(1~5位・育成1~4位)の連載をお届けする。今回は育成ドラフト4位・川崎俊哲内野手(23)=日本海L・石川=のプロ入りへの道のりを振り返る。
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2001年5月2日、川崎家の次男として俊哲は誕生した。5歳の頃から兄・公一朗さんの影響で野球ボールに触れる日々。父の哲史さんは「子どもの頃から野球を熱心にできる子やなというのはありました」。小学1年生から本格的に野球を始めると、周りの親御さんからも「うまいよね」と褒められたという。
一番の衝撃は小学6年生の時。6つ上で当時高校3年生の公一朗さんが無謀な挑戦を申し込んできた。「捕ったら1000円あげる」。体格差もあり、全力投球を捕球するのは難しいと思われていた。
しかし、120キロ超えの全力投球をあっさりとキャッチ。才能を感じさせた瞬間だった。「それを受けたのはビックリしましたね。もちろん、1000円は払ってなかったですけど」と父の哲史さんはニヤリ。高校は地元の輪島高校へ、そして日本海L・石川で5年の鍛錬を積んだ。
勝負の一年。元日から石川県・能登を地震が襲った。俊哲はグラウンドで兄と親友の3人で野球の練習をしていた時。「本当に立ってられなかった。すぐに実家へ戻りました」と俊哲。水も電気も通らない。哲史さんは「この世の終わりみたいになってましたから」と厳しさを語った。
1月3日。そんな状況を見て、哲史さんは俊哲の背中を押した。「こっちは大丈夫やから。おまえは野球をしっかりしろ」。下宿先の金沢は被害も少ない。哲史さんは「野球がどうこうというよりも、こんな不憫(ふびん)なところにいてもしょうがない」という思いから、送り出した。
実家の電気は2週間近く止まったまま。水も2カ月は通らなかった。毎朝、山水で前日の茶わんを洗い、顔を洗って、水をくむ。給水車が来るまではそんな生活が続いた。俊哲は親心に感謝し、プロの扉を開いた。そして夢の続きがある。
ドラフト指名され、少なからず能登に元気を与えた。次は支配下を勝ち取り、1軍で活躍したい。「まだまだ復興も全然できていない。僕が活躍して、明るいニュースを届けて復興に勇気づけられるようにいけたら」。父の哲史さんも願っている。家族の思い、能登の思いを背負い、俊哲が復興のシンボルとなる。
【川崎俊哲(かわさき・としあき)アラカルト】
◆生まれ 2001年5月2日生まれ、23歳。石川県輪島市出身
◆家族 両親、兄、姉
◆サイズ 174センチ、82キロ
◆投打 右投げ左打ち、内野手
◆球歴 小学1年から野球を始める。輪島高校から日本海L・石川に入団。今年は阪神OBの岡崎監督の指導もあって、独立リーグ5年目でNPB入り
◆好きな食べ物 輪島のフグ
◆独立リーグ時代のアルバイト ガソリンスタンド
◆実家 父が「川崎漆器店」を経営。輪島塗の製造販売を行う