生みの苦しみ…最終戦でやっと出た30号
金本知憲氏がプロ野球人生の秘話を語る連載「21年間の舞台裏」。第8話は00年に達成した3割30本塁打30盗塁の記憶で最も印象深いのは、神宮球場での最終戦で放った30号。実は、記念打の前、プロ7人目の偉業到達を「できないほうが格好いい」と感じていたのです。
走れ、走れ、でした。トリプル3で盗塁に自信のついた僕は、翌年も30以上走ったるとやる気満々でした。山本浩二監督は4番の僕に言いました。「全部、お前に任せた。ゲッツーはガクッとくるんじゃ。まだ盗塁でアウトになったほうがええ。どんどん走れ!」。当時、僕のうしろを打っていた5番のルイス・ロペス選手は打点を稼ぐバッターだったけど、早打ちで、併殺も多かった。監督が背中を押してくれた裏には、そんな事情もありました。僕が完璧なスタートを切るたびにロペス選手がファウル、またファウル…。ベンチで浩二さんが、あちゃ~って顔をしてたことを思い出します(笑い)。結局、その年は19盗塁。でも00年の30盗塁で学んだことは多かった。
3・3・3で言うと、3割には自信がありました。ホームランも97年と99年に30本を経験していたので、何とかなるんじゃないかと。記録を意識し始めたのは、盗塁が20個を超えたあたりから。ところが、最後に残ったのは大丈夫と踏んでいたホームランでした。だからこそ、思い出深い。本当に苦しみましたから。
00年の10月です。シーズン終盤の中日戦で29号を打って、残りは4試合。神宮球場の最終戦まで持ち越したくない。地元広島市民球場の3連戦で決めよう。強くそう思っていました。今思い出しても鳥肌が立ちます。あと一本!あと一本!打席に入るたびに、スタンドから大歓声が起こりました。試合展開に関係なく、拍手をもらうなんて経験がなかったので、うれしくて、うれしくて。
でも、打てなかった。地元の声援に応えられない自分が情けなくて、勝負弱さに腹が立って…。自宅に帰ってからも、しばらくは放心状態でした。深夜、部屋の明かりを消して布団をかぶると、ボロボロと涙があふれてきました。今だから話せる、ほろ苦い記憶です。
ヤクルトとの最終戦で30号を打って、記録を達成することができた。正直に言うと、試合前は完全にあきらめていました。打てなくてもいい。いや、打たないほうがいいと考えていました。今思えば、言い訳…かな。でも、当時は本気でそう思っていました。29本で終わったほうが格好いいんじゃん。あのスーパースターと同じ歴史を歩むんだから…。