阪神・岡田監督の「危機管理」 留守電の決まり文句は自分の声 着信には必ず折り返し電話【9】
おーん。ごめんごめん。
わたしには阪神・岡田彰布監督の「おーん」が「おーん」と聞こえたことはない。あいさつや、自分への相づち、接続詞であって単に「おお」と言っているだけだ。ところが若い記者には「おーん」と聞こえるらしく、監督本人も笑っているのでそのまま「おーん」にしときます。
岡田監督が律義なのは、携帯を鳴らすとすぐに出る。出られないときは必ず折り返してきて、なぜ取れなかったかを言う。岡田監督の危機管理。緊急事態の連絡に備える。悪い知らせほど電光石火で対応する。
前回監督のオフにはゴルフのラウンド中に、人事に関する連絡が入った。岡田監督は次のショットを打たず、フェアウエーからそのままカートでクラブハウスに向かった。対応のため球団事務所に車を走らせた。
20日、土曜日の試合後に電話を入れた。留守電。「ただいま電話に出られません。御用の方はメッセージを…」。決まり文句を音声ではなく、自分の声で吹き込んでいるのも岡田監督らしい。「急ぎじゃないんで…」とメッセージを入れると、終わる前に呼び出しが鳴った。
「おーん、ごめんごめん。運転中やったから。あー、裏道で止めたから大丈夫や」
お互い65歳を過ぎた。聞くのはいつも、チームの調子より監督の体調。びっくりしたわ。寝てたら夜中に足がつってなあ。人工芝がこたえるわ。おれが練習しとるわけでもないのに。と開幕直後は、甲子園以外の人工芝球場の負担にぼやいていた。
「やっと慣れてきたわ。ペースというかな。野球の生活から長いこと離れてたからなあ。甲子園のときは自分で運転していくし、寄り道する元気もないわ。ナイターの後はしんどいしなあ」
「それでええやん」とわたしは答えた。以前ならナイターの後でも朝まで平気で飲んだ。年を取ったから、体力が落ちたから、だけではない。精神的なゆとり、余裕、選手たちとの年齢差。65を超えれば分かる人生の構え方がある。
長いシーズン。予期できないことが起きる。1985年8月12日、日航機墜落事故。搭乗していた球団社長の中埜肇を失った。チームは福岡から東京への移動日。一足先に東京で野球関係の会議に出ていた中埜社長は、いったん伊丹に戻る機中だった。
搭乗者名簿は最初、カタカナで報じられた。ハジムナカノ。珍しい名前の読みに、神戸本社でテレビを見ていたわたしは、宝塚方面の自宅に向かった。何も取材できるわけもない。長身で白髪。優しい笑みを絶やさない中埜社長の顔が浮かんだ。
初めて名刺を渡したのは、安芸キャンプのときだった。「かいはつさん、ほう珍しい名前ですなあ。出身はどちらですか?」。「ご存じないと思いますが、兵庫県の揖保郡太子町と言うところで」。「知ってますよ。太子町には阪神不動産の宅地があります」。確かに実家近くにあった。
焼け焦げたネクタイ。タイガースマークのネクタイピンで最期が確認されるという悲しい出来事だった。「どうしていいのか分からなかった。誰も経験したことのないことです。突然、リーダーを失った。しばらく何も考えられませんでした」と吉田監督は当時を振り返る。
タイガース愛にあふれる球団社長だった。直前の博多遠征にも顔を出し、試合後には「お疲れさん」とベンチ裏で一人一人を握手で迎えた。(特別顧問・改発博明)
◇改発 博明(かいはつ・ひろあき)デイリースポーツ特別顧問。1957年生まれ、兵庫県出身。80年にデイリースポーツに入社し、85年の阪神日本一をトラ番として取材。報道部長、編集局長を経て2016年から株式会社デイリースポーツ代表取締役社長を務め、今年2月に退任した。