慶応の「エンジョイベースボール」 甲子園では40年前から畠山や水野の池田が体現していた【22】

 タイガースが甲子園に帰って来る。マジックを減らして夏のロードを終えた。慶応の選手たちが甲子園に「エンジョイベースボール」という野球を残していった。自由な髪形と笑顔。選手もベンチも観客席も、一体となって楽しむ。

 阿波・池田の蔦文也監督の顔が浮かんだ。蔦監督なら慶応の選手を見て、何と言っただろうか。「都会の子供たちじゃ」と苦笑いしただろう。

 「山あいの町の子供たちに 一度でいいから 大海を見せてやりたかったんじゃ」

 蔦監督の残した言葉は、池田の庭にある碑に刻まれた。1974年春にさわやかイレブンと呼ばれて準優勝した。わたしは高校球児だった。木のバットで試合した最後のシーズンだ。

 選抜は池田に勝った報徳学園が優勝している。夏の県大会から金属バットが解禁された。「弾きすぎる」というので、最初はバントの場面では木のバットに持ち替えていた。

 わたしは龍野と言う無名の高校だったが、夏の大会後に兵庫県代表チームに選ばれた。選抜日本一になった報徳のバッテリーや強打者もいて、韓国代表と試合した。

 デイリーに入社したわたしは82年夏から83年春、夏の大会まで池田に密着取材した。金属バットが池田の歴史を変えることになる。

 「打って打って打ちまくれ」「やまびこ打線」「攻めだるま」。いち早く金属バットの特性を取り入れた池田の野球が、高校野球の歴史を変えた。それまでは木のバットを寝かせて構え、最短距離で芯に当てる。走者はバントで進め、スクイズで得点する。それが高校野球の定型だった。

 (最近高校野球のアナウンサーが、バントをするかどうかで、バットを寝かせました、立てたままですと表現するが、あれはおかしい。バットを寝かせるとはあくまでヒッティングのときのコンパクトな構え方を表す言葉だ)

 当てに行かない、芯を外してもフルスイングする。バントはしない、スクイズも戦法にない。「違うんぞ」。蔦監督に密着していたある日、池田高校から山を下ったところにある自宅で、杯を手にしてポツリと語り始めた。

 「わしは臆病者なんじゃ。じゃから酒が辞められん。走者が三塁に行っても、スクイズのサインを出すんは怖いんじゃ。あるときベンチ裏でたばこ吸いよったら、畠山やら水野やら江上もよう勝手にホームラン打ちよるんじゃ。じゃからもう勝手に打たせることにしただけじゃ。ほなけんそいが“やまびこ打線”とやら言われたんじゃ」

 蔦監督は悲しげな眼をしていた。なぜ臆病になったのか。同志社大で学徒動員され、特攻隊の訓練を受けた。

 「訓練で死ぬんじょ。特攻で名誉の死いうんは、当時はある。じゃけんど訓練機が手作りのようなグライダーで、いきなり乗せられたら山に激突するわな。そりゅあわしは、怖かった。臆病と言われても、よう乗らんかった…」

 畠山で82年夏に優勝、水野で83年春を連覇。史上初の夏春夏3連覇も目前だった。準決勝で1年生の清原、桑田がいたPL学園に負けた。試合後、池田宿舎の網引旅館に行った。蔦監督も池田の選手たちも、意外にさばさばしていた。

 「かいはっつあん、おまはんらがそないにがっかりすることないぞ」と蔦監督に励まされた。池田の選手たちは蔦監督の下で、本当の意味での「エンジョイベースボール」を体現していた。(特別顧問・改発博明)

 ◇改発 博明(かいはつ・ひろあき)デイリースポーツ特別顧問。1957年生まれ、兵庫県出身。80年にデイリースポーツに入社し、85年の阪神日本一をトラ番として取材。報道部長、編集局長を経て2016年から株式会社デイリースポーツ代表取締役社長を務め、今年2月に退任した。

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