お前の若いときなんて
【10月18日】
取材者として矢野燿大を「独り占め」した日がある。あれは4年前。18年、秋のことだ。阪神がファーム日本選手権を制したあと、宮崎でフェニックス・リーグの指揮をとる矢野を訪ねた。
コロナ前だから特別な規制もない。ポカポカ陽気、心地いい南国で二人で話をさせてもらった。野球の話、3割。人対人の話、7割…これがおもしろかった。
ウチの社長と、僕のことで何かお話したことあります?そう聞きたくなるような、矢野の洞察力を見た思いがした。指導者…企業でいう管理職のあり方について「例えば、俺がデイリースポーツの編集のトップだったら」という体裁で矢野は言った。
「風が『僕は、みんながやらないような取材をしたい』と言ってきたとするじゃん。それをこちらだけの都合で『それは違う』とやってしまうと、うまくいかないと思う。もちろん、会社ってそんな簡単じゃないと思うんだけど、やり方より、あり方だと思うんだよな。何かノルマを命ずるだけじゃなくて、全体のノルマを達成するためには、チームとしてどう動いたらいいんだろうって。俺自身のあり方を考えるわけじゃん。じゃ風にはこういうふうにやってもらうことがベストなのかな…とか。もちろん信頼があることが前提だけど、俺なら、風には『じゃ、そうしてくれ』と言うと思うし」
続けて
「俺が『ああやれ、こうやれ』っていうと、絶対反発がくると思う。若い人からすれば、お前(上司)の若いときなんて俺は知らないし…と。『こんな記事を書いてこい』って、これってやり方じゃん?でも俺自身のあり方を変えたら(部下も)変わると思う。相手のことを変えようと思っても相手はそんな簡単に変わらない。俺が自分自身を変えていかないと…」
この直後、矢野は急遽1軍監督に就任した。18年の秋から4年間矢野の言葉、矢野の采配、矢野の用兵に触れるにつけ、いつも、あの宮崎での会話を回想した。
勝って欲しい。勝つことではじめて説得力をもつ。矢野野球のカッコ良さを証明できる。アマチュア、少年…各年代の野球の指導スタイル、アプローチが変わるかもしれない-そんな思いもあり、当欄で「勝て」と書き続けてきた。 結果として4年間、残念ながらラストシーズンも勝てなかった。
CSファイナルで敗れた後、神宮球場で高津臣吾のもとへ歩みよる矢野の姿があった。同級生が肩を寄せ、互いを称え合う振る舞いにウルッときた。
高津のあり方、アプローチは、全てではないにしても、もしかして矢野のそれに似たものがあるのでは?と僕の中で解釈している。
「お前、変わらんかい」と、どやしつける前に自分が変わろうと努める。変わってみせる。村上宗隆という最高傑作が、高津というリーダー抜きにあり得なかったとすれば、阪神でもそんな傑作が何人か浮かぶ。勝てなかった。でもありがとう。そう書いて矢野阪神に別れを告げる。=敬称略=
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