軍艦島にいた 伝説の女「さゆり」
軍艦島はその昔、炭鉱の島だった。正式名は端島(はしま)。1974(昭和49)年の閉山とともに無人島となり、2015(平成27)年に世界遺産に登録されると“廃虚ファン”が詣でるようになった。1ヘクタールあたりに1400人が住んだこともある昭和の島。当時を知る元炭鉱作業員は「犯罪らしい犯罪はなかったけれど、けんかは頻繁にあった」。その原因は「女」だった。
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「けんかの原因はね、女です」と元炭鉱作業員で現在は軍艦島ツアーガイドを務める木場田友次(こばた・ともじ)さん(79)。当時の島での男女比は約30対1。「こう言ってはなんですが、どんな女性もモテた」と話した。
木場田さんは1961(昭和36)年1月から62年7月まで島で働いた。24歳から25歳だった。島では犯罪らしい犯罪はなく、そういう意味では平和だった。しかし、木場田さんは「けんかはしょっちゅうあった」と振り返った。島の面積は6・3ヘクタール、居住地面積が3・78ヘクタール。そこに最盛期には5200人が暮らした。
炭鉱掘りで鍛えた筋肉隆々の男たちが、つるはしやスコップを手に暴れる。あわや流血。しかし、島にはルールがあった。木場田さんは「女性が仲裁に入ると、けんかをやめなければいけないという暗黙のルールがあったんです」。そのため、警察が介入するほどの大事に至ることはなかった。
木場田さんが今も鮮明に覚えているのは「さゆり」という名の女性だ。作業員の食事を作っていた。かなりの美人で「40人の男が取り合った」。男たちは「さゆり」とすれ違うたびに貢ぎ物をこっそり渡した。うっかり会話をしようものなら他の男がやって来てけんかになる。だから、“こっそり”は大切なことだった。
採炭の現場は過酷だ。坑内気温は37度までにという規定があったが実際は40度になることもあった。湿度は95%。労働環境が建前と実情で異なるのは21世紀になっても同じだ。それでも給料は良かった。木場田さんの給与は約4万5000円。当時の長崎県庁職員の給与は大卒初任給が1万3000円だった。
ところで木場田さんも「さゆり」を取り合った1人なのだろうか。
「いやいや、腕っ節の強い作業員とけんかはね…」
それにしては50年も前のことをよく覚えている。少しだけ貢いで撤退した口だろうか。分かるなぁ。
◆アクセス 軍艦島へ行くにはツアーに参加するしかない。「軍艦島コンシェルジュ」が実施している。木場田友次さんもここでガイドとして活躍している。料金は大人4000円、中高生3300円、小学生2000円。小学生未満は参加できない。ホームページから予約可能。電話での問い合わせはTEL095・895・9300。