広島 OBの白石静生さんが現役生活を振り返る「毎日飲んで、門限破って、美人をくどきまくって」「広島時代は楽しかった~」

 広島時代の思い出を語る白石静生さん
 広島時代に安仁屋宗八(右)と笑顔を見せる白石静生さん(左)=1967年
 広島時代に根本監督(右)と握手する白石静生さん(左)
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 広島、阪急在籍時に個性派左腕として活躍し、通算93勝を記録した白石静生さん(79)が17年間の現役生活を振り返り、自由奔放に飛び回った広島時代を懐かしがった。

 「カープのときは楽しかったなあ。野球よりね。毎日飲んで、門限破って…まあ飲むしかなかったからね。あのころは。今と違って。あとはマージャン」

 20代の大半を広島で過ごした白石さん。入団当初こそ、当時のスカウト担当だった野崎泰一氏(後の球団代表)から「(歓楽街の)流川と薬研堀へは行くな!」と釘を刺されたが、忠告を守っていたのは最初だけ。あり余るエネルギーを放出する手段はほかに見当たらなかった。

 「先発する前の日に飲んで、投げたらまた飲んで。1週間に5日は飲んでた。“オレの金で飲んで何が悪いねん”と思っとったね。寮にクーラーないし、夏は暑いし」

 遊びに出る“言い訳”はいくらでもあったようだ。

 白石氏はプレーボーイだった。綺麗なお姉さんがいると決まって声をかけた。美人は、「くどかないと申し訳ない」と敬意を表する特別な存在だった。

 ところがあるとき、この豪放な遊びを意外にも根本陸夫監督からとがめられたという。

 東京遠征中、いつものように夜間に旅館を抜け出し、遊び仲間の安仁屋宗八氏らと浅草へ飲みに出た。当然、門限までに戻る意思はない。これがバレて後日、2軍行きを命じられた。

 「ユニホームを置いて帰れとね。謹慎ですよ。でも寮におらしてくれないから僕は徳島の実家へ帰らされて。(既婚者の)安仁屋は自宅謹慎。根本さんもヘッドコーチ時代とは違い“野球やっといたらええ”という考えではなかったね」

 ただこの件に関しては自業自得。「言い訳できない」から納得できた。しかし、納得できないこともあった。それは“故意死球”だ。

 古い時代には珍しくない話と言えばそれまでだが、「投手に当てろはないやろ。それは間違ってる」と拒否したという。遊び人の白石もこれだけは譲れず、ベンチに対して反旗を翻した。

 広島時代、もうひとつ反発した“事件”があった。相手はジョー・ルーツ。ルーツ氏がコーチ時代、白石の左肩に埋め込まれていた金針を抜けと迫ったのが原因だった。

 「(針治療は)東洋医学やからかな。抜けと言われても、抜けやへんがな。そしたら“あいつ、いらん”となった」

 前年(1973年)の試合中に痛めた左肩の治療に白石は「金針療法」を用いていた。

 「その後禁止になったけど、金針は溶けないし移動しない。今でも埋まったまま。でも針を打つと痛みが消えたからね。効果あったんですよ」

 まだある。コーチ時代のルーツ氏からは「汗取り用のカッパ」の使用を巡って2つめの“指導”が入ったという。

 足の痛みが原因でランニング不足になるため、夏場にカッパを着用していたところ、「エネルギーを消耗するからやめろ」とバッサリ。

 結局、74年のシーズンを最後に阪急へトレードとなった。

 「でもね。僕がカープで送った20代は、ほんまに楽しい時代やった。(左右の)アキレス腱が痛かったけど、酒飲んだら忘れとったね。広島はいい球団でしたよ」

 アキレス腱は入団直前に痛めたもので、左から右へと痛みは広がり、現役中はずっと満足にランニングができなかったという。

 コーチだった上田利治氏が「走らんと、それでよう勝てるなあ」と感心していたというが、それほど悪かったらしい。

 カープ在籍9年での成績は59勝77敗。優勝こそ味わえなかったが、十分充実していたようだ。

 移籍後の白石さんはカープでも一緒に戦った郷土徳島の先輩、上田監督のもとで、阪急ブレーブスのパ・リーグ4連覇に貢献している。

 ◆白石 静生(しらいし・しずお)1944年5月22日生まれ、79歳。徳島県出身。投手。左投げ左打ち。鳴門から四国鉄道管理局(現JR四国)を経て65年度ドラフト2位で広島入団。1年目から先発、中継ぎで活躍。74年オフに大石弥太郎とともに渡辺弘基、宮本幸信、児玉好弘と2-3のトレードで阪急に移籍。主に先発投手として4連覇に貢献。82年限りで引退。プロ17年で通算93勝111敗2セーブ。防御率3・81。

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