悼む・世界王者に〝ならなかった〟最強のボクサー、矢尾板貞雄さん

 矢尾板貞雄さん(2001年)
 引退会見で話す矢尾板貞雄さん。左隣は所属ジム会長=1962年6月
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 プロボクシングの元日本、東洋(現東洋太平洋)フライ級王者で、引退後は解説や評論家として活躍した矢尾板貞雄さんが、13日に小脳出血のために亡くなった。86歳だった。

 「幻の世界王者」と呼ばれた矢尾板さんは、世界王者になれなかった、いや、ならなかった伝説のボクサーだ。1955年にプロデビュー。卓越したスピードとフットワークを武器に、フライ級で日本、東洋王座に就き、59年1月には日本初の世界王者、白井義男から王座を奪ったパスカル・ペレス(アルゼンチン)に、ノンタイトル戦で判定勝ちした。

 白井に続く世界王者への期待が高まる中、ペレスと王座を懸けて再戦したが、先にダウンを奪いながら逆転負け。その後も、エデル・ジョフレ(ブラジル)、ジョー・メデル(メキシコ)ら海外の強豪と拳を交えた。

 「ロープ際の魔術師」と呼ばれたメデルとの62年の一戦は、世界フライ級1位の矢尾板、世界バンタム級1位のメデルが階級を超えて雌雄を決するものになった。僅差判定で敗れたが、会場の日大講堂には世界戦並みの8000人観衆が詰めかけたという。

 同年には、世界王者ポーン・キングピッチ(タイ)への挑戦が決まった。機は熟したと戴冠が期待されたが、矢尾板さんは試合前に突然、引退を表明した。表向きの原因は持病。しかし、その裏には所属ジムの会長との軋轢(あつれき)があったとされている。

 引退後は評論家として活躍した矢尾板さん。96年にボクシング担当になった記者にとっては雲の上の存在だったが、「矢尾板さんならこの試合、どう見る?」という駆け出しの疑問にも、具体的な技術論を交えて、常に的確に答えてくれた。当時は珍しかった女性記者が所在なさげにしているように見えたのか、「おい、飯行くぞ」とよく誘ってくれた。

 もう20年近く前のこと。引退当時のことを初めて聞いた。「あの時、世界戦をやればよかったと思ったことはないですか?」。そう聞いたのは、矢尾板さんの代役として世界戦に出場したのが、当時19歳、後に2階級を制覇するファイティング原田で、そこから彼が国民的英雄へと駆け上がったからだった。

 しかし、矢尾板さんは「ないね」とひと言。当時の会長とのいきさつについては詳しく語らなかったが「どうしても人として許せないことがあった。そんな関係で世界戦をやることはできない。だから引退したんだよ」とだけ言った。毅然とした物言いに、こちらのうがった見方を恥じたほどだった。

 また別の日。2人でタクシーに乗って、名古屋で行われた世界戦会場へ向かっていた。行き先を聞いた年配の運転手が「古くからのボクシングファンでね」と語り出した。「昔は世界戦じゃなくてもみんな注目したもんだよ。矢尾板って知ってるかい?」と聞いてきた。

 「私はね、歴代のボクサーで矢尾板が一番強いと思うよ。どんなチャンピオンよりもね。特にスピードはね…」。延々と続く「矢尾板論」の途中で会場に着いた。矢尾板さんが車を降りたのを見計らって「運転手さん、あの人、矢尾板さんですよ」と伝えた。世界王者にならなかった最強のボクサーは、2、3歩歩いて振り返り、いたずらっ子のように笑っていた。(デイリースポーツ・船曳陽子)

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