「鬼門」にするな
【6月29日】
ナゴヤドーム前矢田駅で下車し長い地下通路を歩くと、ドラゴンズの球団史を彩る写真パネルがファンの目を楽しませてくれる。担当球団じゃないので気にしていなかったけれど、ナゴヤドームは今年3月に20周年を迎えたようだ。メモリアルの展示を眺めながら、あれからそんなに経つのか…と、オッサン記者は感傷に浸る。
僕がこの球場に初めて来たのは20年前の97年。当時中日監督の星野仙一が完成間近の新ドームを視察するというので、キャンプイン前日の1月31日に、施工中のドーム内に入らせてもらった。まだ人工芝も敷かれていない、味気ないグラウンド。当日の朝、星野は最愛の扶沙子夫人を難病で亡くしていた。それでも気丈に天井を見上げ、このドームで強いドラゴンズを築き上げる誓いを立てたのだ。
あのとき、星野が後に阪神の監督になり、ここで中日を敵に回し戦っている姿など想像できなかった。そしてもう一つ、あのとき想像できるはずがなかったこと…それは、後にこのドームが阪神タイガースにとって、長く「鬼門」と呼ばれるようになること。名古屋には行きたくない。担当記者ですらそう感じるくらい、何度ここで憂鬱な原稿を書いたことか…。
83勝157敗、5分け。この夜を含めた、ナゴヤドームにおける阪神の通算戦績である。勝率は3割台。改めて本紙記録部に確認してみると、やはり散々な歴史だ。
この際、記しておく。97年の開場から20年間で阪神がこのドームで中日に勝ち越したのは4度。わずか1勝に終わったシーズンも3度ある。その中で最大の負け越しは野村克也政権の00年、1勝11敗とやられ放題だった。
ここで初めて勝ち越したのは岡田彰布政権の05年。前回優勝したあのシーズンである。05年のナゴヤドームといえば…そう。もう語り尽くされているけれど、やはり彼に聞かなくてはならない。
「僕自身、ドラゴンズにも、このドームにも悪い印象は全くなかったんですよね。日本ハムにいたときも、オープン戦とかで試合しましたけど、本当に全く…」
優勝を決定づけたナゴヤの天王山、05年9月7日。5時間超の死闘に劇的アーチで決着をつけた中村豊はそう振り返る。いま外野守備走塁コーチを担う中村に「苦手どころか、ここは最高の球場でしょ」と聞くと、「いえ」と言う。
「相性が良いとか、いいイメージだとか、そういうふうに考えると慢心につながってしまうので。現役のときも今も、僕はそんなふうに考えたことはないですよ」
武骨な、中村らしい考え方だ。
内野守備コーチの久慈照嘉にも聞いてみた。中日時代、ここで戦う古巣阪神をどう見ていたのか。
「自滅というか、ミスして勝手に転ぶイメージだったかな…」 昨年もナゴヤで負け越し、今年も1勝4敗。試合後、中村に声を掛けた。苦手球場をつくりたくない。そう問うと「マツダの方が嫌ですし、そういうのはないですよ全然…」。今年、ナゴヤドームであと6つ試合がある。=敬称略=