Y編集局次長が独断で選んだ「俺だけの南海ホークス」+α

「阪急、近鉄ときたら南海もやらんかい」という編集局次長の恫喝、もとい提案を受け「南海まとめ」を作ろうとしたら「俺がやる」と言われたのでお任せしました。(敬称略)

公開日:2017.5.12

83年ドラフト6位。レギュラーに定着した翌年の88年に球団身売りが決定、大阪球場最終戦でホームランを放ち、福岡へと旅立った。ダイエーのユニ発表会のモデルになるなど、球団の顔として成長したが、93年オフに秋山幸二、渡辺智男らとの3対3の大型トレードで西武へ移籍。98年金銭トレードで阪神へ移籍後2000年に退団。全盛期にはメジャーでも通用するといわれたほど走攻守3拍子そろった外野手だった。

【外野=山本和範】バッティングセンターから這い上がった“野球界のカズ”

カズ山本

75年ドラフト5位で近鉄に入団。82年に戦力外通告を受け、バッティングセンターでバイトをしながら練習してチャンスを待っていたところ、2軍で対戦経験のある南海・穴吹義雄に誘われて入団した。恩義に報いるかのように主力に成長し86年には監督推薦でオールスター初出場するなど門田、佐々木らと南海打線をけん引した。球団身売り後は福岡出身ということもあり、人気選手として長く親しまれたが、95年に故障と高齢、高年俸を理由に自由契約となる。96年、テスト入団した古巣・近鉄で活躍し21年目で初のファン投票でオールスター出場を果たすと、第1戦で代打逆転3ランを放ってMVPを獲得。地元・福岡で涙のお立ち台となった。
94年に登録名を「カズ山本」に変更している。「ドラキュラに似ている」と近鉄時代から「ドラ」と呼ばれ定着していたが、「子供がいじめられる」という理由と、当時人気だったJリーグ三浦知良の「カズ」にならっての変更だった。

【DH=門田博光】歴代3位の通算576発!アキレス腱断裂から復活した「不惑の大砲」

門田博光

69年ドラフト2位。「ホームランの当たりそこねがヒット」が持論の、今でいう「マン振り」スラッガー。野村兼任監督時代は3番だったが、78年以降は4番として数々の豪打でパを代表する打者となった。79年キャンプ中に右足アキレス腱断裂で離脱するが9月には代打で復帰、これ以降「ホームランなら足に負担がかからない」と、ますます一発狙いに傾倒した。80年に初の40発、81年には44発で初の本塁打王。40歳になった88年には球団身売りが発表されるが、本塁打と打点の2冠王でチームは5位ながらパMVPを獲得し、南海最後の年に意地を見せた。06年殿堂入り。

【ヒイキ100%枠】 編集Wが手に入れた初めてのサインボールは河埜敬幸だった

河埜敬幸

編集Wが小学生のころ、叔父の親友が「教え子からサインボールをもらってやる」と言ってくれた。勤務先の愛媛・八幡浜工は巨人・河埜和正の母校。ウキウキ過ごした数日後、手元に届いたのは「南海の河埜」のものだった。正直、期待はずれではあったが、さすがに「初めてもらったプロ野球選手のサインボール」だけあって「南海の河埜」も応援するようになったのだった。
大人になって記録を調べてみれば兄・和正とともに1000試合出場&1000安打を達成した非常に珍しい兄弟選手とわかった。ライバルはレロン&レオンのリー兄弟のみ。今でも2人そろって我が故郷・八幡浜市を代表する英雄なのだ。

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