【スポーツ】スターターによる人間ドラマ…桐生9秒台で脚光を浴びる26年前の名レース
先日、桐生祥秀が日本人として初めて9秒台を出した日本学生対校陸上選手権(福井運動公園陸上競技場)は、スターターによる「ファインプレー」があったという。レースが行われた9日、競技場には「追い風参考記録」になりかねない秒速2メートル以上の追い風が頻繁に吹いていた。あきらめムードが漂う中、スターターは、風の特徴をつかみ、風が止む瞬間を読んでスタートを切った。そして、「9秒98」という世紀のタイムを演出したのだ。
陸上の華・100メートル走におけるタイムは、実は、スターターの「協力」が不可欠だ。走る距離が短いため、スタートの瞬間で9分9厘、勝負が決まる。とはいえ、一流のスプリンターであっても、理想通りスタートを切れるのは10レースのうち2、3本だ。そのため、フライングをさせず、いかにスムーズに選手たちをスタートさせるかがスターターとしての腕の見せ所になる。
スタート時の号令は、選手の集中力を途切れさせることがないよう、同じ音程、同じ強さで発する。「よーい」から号砲までの時間は2秒前後が理想だ。間隔が短いと選手の焦りを誘発するし、逆に長いと筋肉が硬直し反応が鈍くなってしまう。
過去、男子100メートル史上、もっともハイレベルなレースと言われた大会がある。それもスターターのファインプレーだった。1991年8月、東京で第3回世界陸上が開催された。男子100メートル決勝のスターターを任されたのは、飯島秀雄。男子100メートルの元日本代表で、日本記録保持者でもあった飯島は、陸上競技を辞めたあと、プロ野球団の東京オリオンズで「代走専門」として3年間プレーしたという異色の経歴の持ち主でもあった。
飯島は慎重に「よーい」と発し、速やかに全員の静止を確認してからピストルを撃った。が、このレースは「よーい」から号砲までの時間が1・5秒と、やや短かった。レース後、そのことでフライング気味の選手がいたと物議を醸したが、飯島はこう主張した。「今しかないと判断して撃ちました。わずかな時間を置いたために、かえって集中力がなくなる危険性だってある。静止したかどうかが問題で、何秒待たなければならないということは、問題外だと思います。スターターの務めは、選手を最高の状態で出してやることです」(『「世界最速の男」をとらえろ!』より)
結果的に、全員がスムーズにスタートを切った。スタートが苦手で、後半の加速で逃げ切るタイプのカール・ルイスも、このときのスタート反応時間は0・140秒だった。0・2秒近くかかることも珍しくないルイスにとっては、完璧に近いスタートだった。トップでゴールしたルイスの記録は、9秒86。人類が初めて9秒9台の壁を破った瞬間だった。さらには8人中6人までもが9秒台で走り、いずれも自己記録を更新。91年度の世界ランキングのタイムは、同レースの出場者が1位から6位を独占した。近年、スポーツの世界におけるジャッジもハイテク化が進み、人間の判断が入り込む余地がどんどん狭まってきている。しかし、どんなにハイテク化が進もうとも、その機械を操作するのが人間である以上、人間ドラマが失われることはない。(ノンフィクションライター・中村計)