平成ノブシコブシ・徳井健太、泥水で育ったひまわり 結成22年目の景色 初の著書重版決定
お笑いコンビ・平成ノブシコブシの徳井健太(41)が近年、目の輝きが変わった。2000年にコンビを結成し、10年にフジテレビ「ピカルの定理」でレギュラーに抜てき。13年の放送終了後はテレビで露出を増やす相方・吉村崇(41)に隠れるような印象だったが、18年からのテレビ東京「ゴッドタン」出演をきっかけに、“悟り芸人”として再び注目を浴びた。このほど出版した初の著書「敗北からの芸人論」(新潮社)は、発売3日で重版が決まる大反響。負けたからこそ見える、結成22年目の景色を聞いた。
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「ダウンタウンにはなれなかった」
夢が破れてから芸人の道は始まるのだと、徳井は初著書「敗北からの芸人論」で語っている。
自身もそうだった。
「ダウンタウンさんの『お笑いってすごいんだぜ』って、テレビ界を切り崩していったシーンを見た。革命だった」
憧れを抱き北海道から上京し、東京NSCに入学。しかし同期・ピースの才能を見て、すぐに希望ははかなく散った。
「周りが面白くても何も思わなくなった。嫉妬とかもほぼなくなった」
無気力のまま4度コンビを解散し、2000年に吉村と平成ノブシコブシを結成する。
「ロックやろうよって言われたらロック、文章書きなよって言われたら、小説家になってたかも。ただ一番初めに声をかけられたのが吉村だった。吉村がいなかったら確実に俺は終わってる人間だったんで、人に恵まれた人生だったと思います。20年間は殺意しか抱いてなかったけど」
海外の部族ロケなどで活躍した「ピカルの定理」が13年に終了し、「仕事を突きつけられないと何もやることがない」葛藤の日々を過ごした。コンビで意見のぶつかり合いも多く、「僕から『解散しよう』と言えなくて、その言葉を待っていた。本当につらくて、自分で好きなことやればよかったんですけど、そういうのも思いつかなくて…」と精神科受診も考えるほどの闇を味わった。
転機となったのは9年目。先輩の元ハローバイバイ・金成公信(現在は千葉公平)から「自分のやりたいお笑いをやれ」と金言を授かった。
「それまで自分がやりたいことをやったことが一回もなかった。どうせ芸人を辞めるし、最後に自分が面白いと思ったことを自分の責任でやってみようと思って、後輩2人と一緒に、自分が面白いことをやるだけのライブをやった。楽しかったですね。初めてお笑いって楽しいんだと思うぐらい。あれがなかったら終わってました」
コンビ間の違和感を抱えつつも、1人で楽しさを見いだせるようになり、「15年目で“兄弟”になった」と明かす。
「お互い、求めなくなったと思います。ようやく大人になったっていう感じでしたね」
その後、2018年から始まった「ゴッドタン」内の「腐り芸人セラピー」は、孤独で腐った芸人への徳井の的確な熱い考察で、お笑いファンの心を揺さぶる人気企画に。
「ゴッドタンがなかったら、俺が腐ってたと思う。俺みたいなのを使ってくれた人に恥をかかせないために、収録を頑張ろうと思えるようになった」
自分を評価した人のために、前を向けるようになった。
温かい言葉をかける姿から“悟り芸人”として再ブレーク。過去に吉本芸人の著書を書いた東野幸治(54)から後継者に指名され、芸人考察コラムを連載することとなった。
「チャンスをいただいた東野さんの顔に泥塗るわけにいかず、全力で書きました」と力を込める。文章を書くことは好きで、「本を出すのは夢でした。魂を削って、僕の芸人人生をかなり出しました」と自信。約1年間のコラムをまとめて本書が完成した。
東野は「腐り狂った超天才」、千鳥は「時代を動かす革命児」かまいたちは「令和のハイブリッド芸人」-。本書に登場する21組には、芸人人生にそったタイトルをつけている。自身でコラムを書くならばタイトルは…。
「『泥水で育ったひまわり』。太陽のようにきれいなひまわりに見えるけれども、ずっと地下で、泥水で育ってきた。でも結局花が咲いたら、泥水もきれいな水も一緒だったみたいな感じ。うちらは一度もエリートって言われたことがない。よく続いてるなって客観的に思うんですけど、なんとなく花が咲いたんでよかったなと。花が咲くとは思わなかったですけどね」
何度も絶望を味わいながら咲いた花は、穏やかに笑った。
◆徳井健太(とくい・けんた)1980年9月16日生まれ、北海道別海町出身。2000年、東京NSC5期生の同期・吉村崇とお笑いコンビ「平成ノブシコブシ」を結成。フジテレビ「ピカルの定理」に出演し、注目を浴び、テレビ東京「ゴッドタン」で再注目。趣味は麻雀、ボートレース、バレーボール、ギター、パチスロなど。「もっと世間で評価や称賛を受けるべき人や物」を紹介すべく、YouTubeで「徳井の考察」も開設。