【大相撲】もし、大相撲の第64代横綱・曙太郎さんが角界に残っていれば、どんな名力士を育てていただろうか

 もし、大相撲の第64代横綱・曙太郎さんが角界に残っていればどんな名力士を育てていただろうか。

 史上初の外国人横綱だった曙さんが54歳で死去していたという。米ハワイ出身の曙さんは角界を離れプロレスラーとして活躍していたが、37分間の心停止の後遺症から重度の記憶障害に見舞われ、2017年から闘病生活を送っていた。私が大相撲担当だった01年の初場所を全休後、電撃引退したが、この「曙、電撃引退」の原稿を書くため、記録的な大雪の中、当時東京都墨田区にあった東関部屋の前で関係者を待っていた思い出もある。

 引退後は年寄名跡は取得していなかったが、5年間は日本相撲協会に残り、現役のしこ名のまま年寄を名乗れる横綱特権で、東関部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていた。だが、さまざまな理由があり03年11月に日本相撲協会に退職届を提出。立ち技格闘技のK-1に参戦しその後は、プロレスラーとしての道を歩むことになっていた。本来なら元東関親方(元関脇高見山)が同じ故郷のハワイからスカウト。横綱にまで育て上げており、外国出身の力士として初めて横綱となった曙さんは東関部屋を継承しても、不思議ではなかったかもしれない。

 一時は東関部屋とは疎遠になっていたが、関係が完全に途絶えたわけではなかった。13年6月には元東関親方の依頼で部屋の師範代に就任し、まわしを締めて若手に胸を出し、稽古を指導したこともある。

 曙さんといえば自らの付き人だった現振分親方(元小結高見盛)との漫才のようなやりとりが忘れられない。普段から緊張しがちな振分親方のことを本名の加藤から「カトちゃん」と呼び、「面白い人間なんだよ。感心する。音楽を聴きながら漫画を読み、そしてテレビもみている。いいねぇ~」と、いじり倒していた。いた。また、用事を言いつける際には、偉ぶることなく「カトちゃんロボ発進」などといって周囲の笑いも誘っていた。

 曙さんは、私にとっては横綱にもかかわらず取材しやすい力士のひとりだった。思い出はいくつかある。記者仲間の何人かと、曙さんが当時住んでいた東京・福生の自宅に呼んでもらったことがある。このとき「これ、食べてよ」と差し出されたのが赤ん坊の頭ぐらいある巨大ハンバーガーで、それも2個。しかも「足りないだろう」と大量のポテトフライまで用意されていた。

 プロレスラーになってからも何度か取材現場であった。昔の癖で「横綱」と呼ぶと「もう横綱じゃないっていうの」といいながら人なつっこい笑顔を浮かべ、いつも寄ってきてくれた。元気な曙さんの最後に会ったのは14年12月、都内で行われたクリスマスのチャリティープロレスのときだっただろうか。私をみつけるとこのときも「久しぶり。何でいるの?」と寄ってきてくれ、しばらく雑談したことを覚えている。

 たら・れば-が禁物なのは分かっている。だが、もし曙が部屋を継承していたら、どんな指導をし、どんな力士を育てたのだろうか。そう思うのは私だけではないだろう。(デイリースポーツ・今野良彦)

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