杏里 悲しみがとまらない秘話(後編)
大ヒットの後の作品担当はやりにくいですね。前作が他人の作品であれ、自分の作品であれ難しい。特に「悲しみがとまらない」の前作「CAT’S EYE」のように100万枚いっちゃうと、どうやってもかなわないところがあります。その曲は怪物みたいな存在ですから。しかしこれも不思議なもので、野球同様、記録に残るか、記憶に残るか、という部分がありますからヒットとはよく言ったものです。
人気アイドルの場合は、そんなに大きく売り上げの変動はありません。歌とは別の魅力で確実な数字が既に見えているからです。でも、アイドルに作品を提供する場合、作家として10万枚売れるアーティストが9万枚になったら嫌ですね。11万枚にするのがヒットメーカーのプライド。その1万枚の意味は大きいのです。
ニューミュージック系のアーティストとなると、その作品がアーティストの個性につながる場合があるわけです。特にまだアーティストとしてのスタンスが確立されていない場合は、私たちの責任は重い。
先述したように、アイドルの場合は曲以外の付加価値がそこにあり、アドバンテージになります。アーティストの場合はホントに作品勝負という要素が強くなっています。私にとっては、そちらの方がリスキーだけど面白いですね。自分の音楽性も存分に発揮できる部分もありますし…。
作曲家としてそこできちっとした答えを出し、多くの人たちに受け入れられ、作品力としてヒットにつながった方が、アイドルへの楽曲提供より喜びが大きいのです。
上田正樹さんの「悲しい色やね」がけっこう時間をかけながらベストテンに入って、杏里さんの「悲しみがとまらない」は意外と早く入ってきたわけです。その後を追いかけるように杉山清貴&オメガトライブの「サマー・サスピション」が出て、中森明菜さんの「北ウイング」が大ヒットする。それらが全てチャートにつながっていったんですね。ベストテンの中に4曲。一発ヒット屋じゃなくて、きちっとヒットがつながったことで、自分のスタイルを誇示できた喜びがありました。
それらは偶然にも康珍化+林哲司のコンビによるもので、自分たちが望む望まざるにかかわらず、ゴールデン・コンビと称され作品の依頼が後を絶ちませんでした。時代にミートしているという感覚を持てた瞬間でした。