G1の成功とヒール転向
もうすぐ平成が終わる。平成とともにプロレス人生を歩んできたプロレスラー・蝶野正洋が平成のプロレスを振り返った。今回はG1クライマックスと自身の衝撃の「ヒールターン」について語り尽くす。
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オイ、テメエら!蝶野正洋だ。今回は平成の大ヒットシリーズになった新日本プロレスのG1クライマックスと自分のヒール(悪役)転向までについて話そう。
前にテレビ型の昭和プロレスから興行型の平成プロレスに変わったと話した。87(昭和62)年に両国国技館2連戦を始めた新日本は、それを夏の興行の柱にしようと模索したけど翌年も続く企画はなかった。91(平成3)年8月に第1回が行われたG1も何個かトライした中の一つで、自分は翌年もやるとは聞いていなかったよ。
だけど、長州力さんと藤波辰巳さんに、自分、橋本真也選手、武藤敬司さんの闘魂三銃士と外国人を加えた8人が4大会(愛知県体育館と両国3連戦)で争う企画は大成功。新日本もこれならいけるとなったんだと思う。
自分は優勝したけど、一生懸命で夏の甲子園みたいだった。体を壊してもいいから当たって砕けろ戦法でぶつかったから、次のシーズンはボロボロ。G1王者だからメインイベンターになったけど、体が1シーズン持たなかった。当時のエースは年間百数十試合のメインを張らないといけないのに、その役割が分からなかったんだ。ガッデム!
だから2回目もやるとなったときは「えっ、今年もやんの?嫌だよ」となったよ。2回目も優勝はしたけど、今のようなヒールになったのはその流れがあったからだ。エースになりきれない。三銃士でもトップになれない。選手会長もやって組合みたいに会社と交渉して、このレールに乗ってたら、自分を出し切れないんじゃないかと悩んだんだ。
そこで、4回目のG1があった94年の1月、会社に外国人契約を申し出たけど断られてしまった。だったらG1で花火をもう一発上げようと。自分はまた優勝してチャンスが巡ってきたけど、会社にはだまし討ちの形だったから、表彰式でパネルを放り投げるぐらいしかできなくてね。だけど、マスコミが「蝶野、どうしたんだ?」みたいに拾ってくれたから、ヒール転向ができたんだ。あそこで拾ってもらえなかったら終わってたよ。(プロレスラー)