「闘魂三銃士興行」はなぜ消滅したのか
平成が終わり、令和の時代が始まった。平成とともにプロレス人生を歩んできたプロレスラー、蝶野正洋が新時代を迎え、平成のプロレスを振り返った。今回は幻の「闘魂三銃士興行」について語り尽くす。
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元号は平成から令和に変わったが、この連載はまだ続く。今回は実現寸前で消滅した「闘魂三銃士興行」について話そう。
それが計画されたのは04年。ZERO-ONEを旗揚げした橋本真也選手、全日本プロレスへ移籍した武藤敬司さん、新日本プロレスに残った自分、別の道を歩んでいた闘魂三銃士が、デビュー20周年を迎えたのを機に再び同じリングに立とうという話が持ち上がった。PRIDE、K-1の勢いに押されていたプロレス界を盛り上げようと。三銃士と仲がよかった新日本の役員が動いて、関西の広告代理店も入り、段取りは順調。全日本とZERO-ONEは調印を済ませ、あとは新日本を待つだけというところまで進んだ。
それがなぜ実現しなかったのか。一言で言えば、新日本暗黒時代の内紛が原因だった。新日本にも当時の社長だった藤波辰爾さんまで話は伝わっていたけど、動いていた役員が「もう少し待とう」と言い出した。近いうちにアントニオ猪木さんが草間政一さんを新社長に送り込むのを知っていたから、草間さんが来てからでいい、という考えだった。
ところが、04年6月に新社長となった草間さんは反猪木派に突き上げられて孤立。「三銃士興行」で揚げ足を取られることになった。「三銃士興行」は委員会方式のように各団体が平等にやろうという計画。新日本にもこれだけの利益がありますよ、という話だったから最初は文句は出ていなかった。
しかし、草間さんに求められていたのは経営の体質改善。反猪木派から「『三銃士興行』は、あなたがやろうとしていることに反しているじゃないか。何で他団体に利益をもたらすようなことをするのか。こんなものを承認するのか?」などと追及されてしまい、結局断ってしまったんだ。これには動いていた役員もひっくり返っていたよ。
自分はここから他団体に乗り換えるなんて意識はなかったし、新日本を中心に外交をして利益を持って帰るという基本姿勢も変わっていなかった。業界を盛り上げるいい機会だと思ったけど、タイミングが悪くて実現しなかったのは残念だ。(プロレスラー)