巨人にベッタリ
世に悪党は多い。そのなかでも悪知恵を使い己だけ悦にいる悪党は始末がわるい。作新学院の江川卓をものにするために「空白の一日」を編み出し、まんまと江川卓と契約し、これで今季の補強ははい、終わり、とばかり翌日のドラフト会議(1978年11月22日)をボイコットした読売と江川と弁護士の3者の画策はまさに救いようのない悪知恵で、列島のみなが呆れ、絶句した。
もっともこの悪知恵にはいかに普段は巨人べったりのセ球団も、はなから巨人の横暴に苦虫を噛んでいるパ球団も「これは許せない」と一致団結し、巨人と江川の掟破りは水に流れた。
巨人抜きのドラフト会議で阪神は江川卓を指名し、ロッテと近鉄、南海のパ3球団の4球団の競合となった。それにしてもなぜタイガースは煮ても焼いても食えない江川を指名したのか。ここのところは今も昔も詳しく書かれていないが、二人の人物をここに登場させると答えが透けて見えてくる。
小津正次郎と小林治彦。小津は阪神電鉄専務の肩書きをもったままタイガース球団に乗り込んできた。1964(昭和39)年の優勝を最後になかなか勝てていないチームの再建を託されてきた。小林治はその時のスカウト部の責任者。法政大のOBで、江川の先輩であるが江川が巨人一辺倒とあって球団内で顔がたたない。
小津に話をもどすと、当時の小津はある人物と電鉄本社の次期社長の椅子を争う候補とされ、タイガースがらみで存在感を誇示したい思惑がある。ライバルは東大卒、小津は旧高等商業学校卒。小津にはなにがしかの得点が必要とされた。
「いつまでも巨人に好き勝手させてあきませんで。ここは一発江川を指名して、権利も得て、巨人にひと泡をふかさせてみたいんです」という小林治の気迫に小津は己のそれを重ねた。
「どないしまっか」。ドラフト会議の朝、会場から球団代表の岡崎義人が大阪で待機する小津に電話をいれた。江川を指名するかどうかの最終確認である。「GOや。予定通リ。当たりクジ、頼むぜ」。 小津の執念が岡崎に乗り移ったように、クジを引く役の岡崎は4球団競合で、勝った。
さあ、江川は阪神と契約するのか。するわけはない。もとより、巨人以外に入団する考えが1%もないだけに 江川騒動は泥沼化した。でも、この世に解決しない難ごとはひとつもない。小津が毎夜、天を仰いだ、そんなある日。コミッショナーの金子悦が巨人と阪神の仲に立ち、あっと驚く妙案を提示するのである。
まず江川卓君は阪神と契約しなさい。それから阪神さんは江川君をジャイアンツへトレードで譲る。阪神さんは巨人のだれかを交換で獲ればいいのです。巨人さんも交換トレードを受け入れなさい。阪神さんの希望をちゃんと聞くのですよ。はい、これで解決しませんか。
金子が阪神のオーナー田中隆造へのホットラインを使い、なんらかの圧力をかけうんといわせたことは大よその見当がつく。
江川を巨人に渡す?それは阪神が世の笑いものになりまっせ-と顔を歪める小津を田中はどう言い聞かせたか。
「球団ができて以来、うちは巨人にどれだけ世話になったか。そこを考えなさい。巨人あってのタイガースではないのか。あんたもそこんところは理解できるやろ?どうや?」
江川卓-小林繁の1対1の交換トレードは小津が涙を飲んで成立した。阪神の巨人隷属はそれ以前も、それ以降も「阪神の弱点」として続いていると言っていい。しかし、阪神は金子の(巨人と結託した)悪知恵にうまくあしらわれたものである。金子の巨人贔屓を知らぬ者はあの当時、ひとりもいなかった。(敬称略)