罪な兼任

 「代打オレ」と球審に告げ、古田敦也(ヤクルト)は厄介な「兼任」の仕事を笑いに変えた。時が流れて谷繁元信(中日)が古田と同じ苦労を背負い、捕手兼任監督として、今を戦っている。今季の開幕3試合を谷繁は監督に専念し、阪神に3連敗を喫した。解説者の岡田彰布が「(谷繁が)マスクをかぶっていたら阪神が3連敗したかも」と言っていたが、それは谷繁自身の思いでもあったろう。痛し痒(かゆ)しのドラゴンズ。3連敗の裏側に兼任の功罪が透けてみえた。

 阪神タイガースに兼任監督の前例がある。藤村富美男で1956(昭和31)年のシーズンを内野手兼任で契約し、その年、79勝50敗1分けで2位になっている。翌2年目も2位。立派なものだが、3年目は現役に戻った。なにがあったのか。「藤(ふじ)さんのわがままがでたんだよ。球団はスターの言いなりなんだから。兼任のわりに年俸が安かったんじゃあねえか」とOBがあとになって教えてくれたが、いわゆる世に有名な藤村排斥事件の起きたシーズンだった。

 藤村の14年後、球団はエース村山実を(1970=昭和45年)投手兼任監督就かせるのだが、「兼任」がお家騒動の火ダネとなる。時の球団トップの野田誠三オーナーや、球団社長・戸沢一隆の思惑が裏目に出たのである。兼任監督・村山実の1年目は77勝49敗4分け(・611)という戦績で2位。宿敵・巨人にも13勝12敗1分けと勝ち越したが、2年目は5位に転落した。余談ながら、この年、江夏豊が球宴(西宮)で先発し、9連続三振を記録、神がかりの話題を提供したが、チームの公式戦は暗転した。

 球団は暗転の理由を兼任監督の疲労と検証し、翌シーズンに「助監督」の意味合いで金田正泰コーチを村山につけた。金田は阪神の監督歴があり、選手時代はダイナマイト打線の一員として知られた外野手だ。

 3年目も村山丸は兼任で出帆した。出てから間がないのに、このふたりがしっくりとこない。村山は「俺が監督」と主張し、金田は「球団から(村山に)遠慮するな、と言われている」と張り合った。お互いが意地の張り合い、負けん気の強さを隠さないものだから。村山丸の船腹のひびは鈍い音を立てた。

 あまりにも幼い話がある。試合が終わって、新聞記者が金田コーチばかりに話を聞きに行く。野手出身の金田コーチのほうが勝因、敗因の説明に味と説得力がある。投手の村山監督はどちらかといえば感情論に走り勝ち。記者は金田の話を聞いたほうがよく書ける。村山監督が浮いた。

 「俺には寄ってこん。おかしいやないか…」。

 村山が荒れる。阻害されたと金田を恨み始める。

 「別に俺が記者を呼び集めたわけやない」

 金田はありのままを口にしたが、村山の胸中を読めなかったのか、雑音を捨て置いた。器が小さいような気がした。監督補佐の役割で招聘されているのに、己に寄ってくる記者を抱きかかえる。最後はもう子供の喧嘩。村山も割り切ればいいものを、金田憎しを増幅させた。

 ついでながら、金田正泰という人物は阪神タイガースの数あるお家騒動の中、最も名高い藤村富美男排斥事件(1956=昭和31年11月)の中心人物。罪過を暴き、訴えるに長(た)けたのが金田。よく言えば正義心に燃える硬骨漢、平たく言えば血の気が多いだけ。そういう人だった。思えば、帽子を飛ばし、髪の毛を振り乱して長嶋茂雄や王貞治に真っ向から投げる村山と金田はお互いに爆弾を持って生きていたようなものである。ふたりが物言わぬ仲になるまで長い時間はいらなかった。

 二人の確執を知った球団は開幕してまだ日が浅い4月下旬に次の沙汰を下した。

 「監督の指揮権を金田コーチに託す」。

 村山は軒(コーチ職)を貸した金田に母屋(監督の椅子)を取られた格好となった。

 そのシーズン監督の肩書きを奪われ1選手に戻った村山は22試合に投げ、4勝6敗と戦力にならず村山は野に下る。そのオフに引退を発表した。村山を師と仰いでいた江夏豊が金田と物言わぬ仲だったのが表面化する。阪神がまた不協和音を鳴らしている時、川上巨人軍はV9に向かいひたすら走った。(敬称略)

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