元阪神ドラ1中谷仁の数奇な野球人生

 プロ野球はキャンプたけなわ。沖縄各地を中心に、12球団の選手たちが3月末から始まる2014年度の公式戦に向け、己の精神と腕を磨いている。掛布雅之DCも指導する阪神2軍は今、高知・安芸で鍛錬中だが、16年前の1998年2月、この地に将来を嘱望されたドラフト1位捕手がいた。

 中谷仁。和歌山の強豪校・智弁和歌山で強肩強打の捕手として鳴らし、全国優勝に導いた司令塔だった。「早いもんですよね。16年前ですか…。ほんといろいろありましたね」。懐かしげに振り返る中谷氏は、阪神‐楽天‐巨人と渡り歩いた都合16年間のプロ野球人生に幕を閉じ、昨年12月、東京から地元の関西に戻ってきた。

 中谷氏のプロ野球人生は波乱に満ちていた。97年秋のドラフトは1位が中谷で、2位がのちにヤンキースに移籍する井川慶(現オリックス)。当時は井川よりも中谷に球団は大きな期待をかけていた。強肩強打の肩書きもさることながら、その“頭脳”に惚れ込んでいた。

 「キャッチャーは監督がやっていることが分からないといけない。監督の特徴を早く知りたい」

 ドラフト指名された直後のコメントには、中谷の非凡な素質が隠されていたのだが、悲劇はプロ2年目の99年に起こる。ある同僚選手の投げた携帯電話の先が左目を直撃。これが原因で急激に視力が低下、一時は失明の危機にまで陥った。右と左の視力が極端に違うのは捕手にとって致命傷。中谷は考え得るすべての方法をとって視力回復を目指した。

 今でこそ「あのアクシデントも僕の人生の一部ですよ」と笑えるが、当時はわらをもすがりたい一心だった。苦労の甲斐あって徐々に回復、何とか試合に出られるまでになった。プロ5年目の2002年、初めて1軍に昇格し、初安打初打点もマークしたものの、その後は出番がなく05年オフに金銭トレードで楽天へ移籍となった。

 阪神在籍8年間で1軍出場は02年のたった17試合。打撃成績は22打数1安打1打点、打率・045。だが、数字以上のものを残し、また阪神から得ていた。同じドラフト1位で、学年が1つ下の藤川球児(現カブス)の成長に大きく寄与し、また彼からプロとしてのエキスを吸収していた。

 「球児はよく言ってましたね。『ねぇ、仁さん。コーチはフォームのことをとやかく言うけど、そんなん関係ないよ。どんなフォームでもキャッチャーが構えたところにきっちりと投げれたらいいんやから。それができんかったら投手の責任やし、それで打たれたら仁さん、キャッチャーの責任や』って」

 藤川も中谷氏と同じく入団後、芽が出ず、星野監督時代(2002~03年)に先発で使われながら結果を出せなかった。そんな苦境の時期を中谷は直に接して知っていたし、声もかけてきた。

 人一倍負けず嫌いの藤川はその後“火の玉ストレート”を身に付け、岡田監督2年目の05年には不動のセットアッパーにまで成長した。「真っすぐで抑えることに徹した球児の使いどころを、岡田監督はわかっていたんでしょうね。1イニング限定の起用が才能を開花させたと思います」。藤川を適材適所で使った岡田監督もそうだが、藤川急成長の陰に何でもしゃべれる1歳年上の中谷の存在があったのは言うまでもない。

 “球児の財産”を持って楽天に移ると、そこに待っていたのは自分が失明危機にあった当時の監督・野村克也氏だった。野村氏もまた阪神退団後の2003年から社会人シダックスで監督を務め、この年に楽天に招かれたのだ。

 中谷の素質を高く評価していた野村監督の下で再びチャンスが訪れた。楽天移籍後3年目の09年6月21日の古巣・阪神戦(甲子園)。この試合で代打で登場し、阪神先発の能見からプロ12年目で初の本塁打となる2ランを左翼席に放った。

 「神様が僕にご褒美をくれたんですね。夢みたいだったけど『ああ、これで俺の野球人生は終わるんだな』って思いました」。こんないいことが続くわけはない‐。ところが、これを機に中谷は出場機会を増やし、シーズン2位で球団初のクライマックスシリーズ進出にも貢献する。

 中谷の人生を再び変えたあの一発ほど、球団の隔てがなく喜ばれたものはない。真っ先にお祝い電話をくれたのは阪神・藤川球児だったという。

 その後の3年間は出番が減少したが、代わりにかけがいのない“2つ目の財産”を得た。これがもうすぐヤンキースのキャンプに合流する田中将大との出会いだ。「彼の球はレベルがちょっと違ってました。あの決め球のスプリッターも、最初はなかったんですがすぐに覚えてきましたから。それでいてあのキレでしょ。彼の球を受けられて本当によかったと思ってます」。07年から11年までの5年間で異次元の成長を遂げる田中をそばで見た。藤川球児とはまた違う超人と直で接したことで、中谷の器はさらに大きくなった。

 11年オフに自由契約となり、トライアウトを経て巨人に入団するのだが、巨人は彼の持つ“引き出し”の多さがチームにとって有益になると考えた。12年限りで現役を引退、翌13年はブルペン捕手に転じたが、巨人・原監督は中谷仁という男の存在価値を認めていた。

 「原監督は僕らのような立場の人間でもじっくりと話をしてくれました。去年のWBCも監督から『行ってこいよ。勉強になるから』と推薦を受け、行かせてもらったんです」

 侍JAPANのスタッフとして世界の野球を肌で感じたことも勉強ならば、巨人で内海や杉内、山口や西村ら最強投手陣の球を受けたこともまたいい勉強になった。野村‐星野‐岡田‐野村‐星野、そして原…。中谷が歴代仕えてきた監督のエキスもまた自身の血肉となっている。

 昨年末、巨人を離れた中谷氏に古巣・阪神から裏方として声がかかったというが、あえてこれを断り、球界をいったん離れる決心をした。今年1月から東北楽天ゴールデンイーグルスの「パフォーマンスコーディネーター」でもあった手塚一志氏が開設している『上達屋・大阪道場』のスタッフになり、将来のプロ野球選手を目指す子供たちに「質の高い上達メソッドを伝え、広めていくのが僕の使命」として、新たな夢に胸を躍らせている。

 まさに数奇な野球人生。あのアクシデントさえなければ、阪神不動の正捕手に育ったに違いない。ただ、そうだとすれば、以降の貴重な出会いと経験もなかったかもしれない。

 1997年秋のドラフト直後。18歳の中谷がこう言ったのを覚えている。「最後は監督になりたいんです。野村型のねちっこい監督になりたい」。時は流れ、36歳でプロの世界から離れることになったが、まだまだ可能性はある。

 中谷氏は「ここ3年くらいで自分がどういう道を歩んでいくかを定めたいと思っています」と話す。アマチュアの指導者という選択肢もあるようだが、あれだけのエキスを吸収してきた男だけに、何としてもプロ球界に戻って当初の夢を叶えてほしい。

(デイリースポーツ・中村正直)

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