【野球】楽天・与田コーチ 恩師・星野仙一氏の教え胸に新たな1年へ挑む

 野球界にとっての正月といわれる2月1日のキャンプインが、直前に迫っている。楽天・星野仙一球団副会長(享年70)が1月4日に急逝し、いまだ悲しみが癒えぬ中、中日時代の教え子である与田剛2軍投手コーチ(52)は、ルーキーだった28年前を思い出していた。

 「星野さんに、プロとしてのスタートに立たせてもらった」

 1989年秋のドラフトで、星野氏が監督として率いた中日は、8球団が野茂英雄で競合する中、当時・NTT東京の与田コーチを単独指名した。そして、そんなルーキーを開幕試合でいきなり抑えとして起用。延長十一回、無死一、三塁のピンチで送り出すと強心臓の新人右腕は無失点に抑えきった。以降、守護神に定着した。

 「オーストラリアのキャンプで肉離れを起こして、開幕アウトと言われていたんだけどね。でも間に合って、3月中旬の日本ハム(東京ドーム)とのオープン戦で1イニングを3人で抑えた。星野さんは、そこで(抑え抜てきを)決めたみたいだね。まわりの批判を考えると、ルーキーをいきなり抑えで起用するなんて、難しい決断だったと思う。でも、俺が決めたからには文句を言うなという感じだった」

 星野流の起用は当たり、与田コーチは、当時のルーキーでは史上最多となる31セーブを挙げ、新人王と最優秀救援投手の2つのタイトルを獲得した。その鮮烈な存在感は語り草となり、同コーチの現在の地位を築いていると言っても過言ではない。

 翌2年目以降は、けがに苦しみ、ルーキーイヤーのような活躍は挙げられなかったが、「星野さんが自分をつぶしたという記事が出たときは、悔しかった。近藤(真市)も短命で終わったと書かれたけど、真市もそうは思っていないはず」と語る。恩師に感謝の気持ちしかない。

 与田コーチは、ドラフトで自身を選んでくれたことに、深い恩義を感じていた。「野茂を指名せず、自分を指名してくれた。だから、頑張ろうという気持ちは強かった」。2000年オフ、テスト入団した阪神を戦力外となり、現役生活を終えた与田コーチは、星野氏の自宅に出向き、引退を報告した。その際、こう尋ねた。「どうして、野茂でなく、僕だったんですか」。星野氏は柔らかに照れ笑いしながら答えた。「俺は、お前と一緒に野球がやれて楽しかったよ」。闘将のその言葉を、与田コーチは忘れないという。「本当にうれしかったね…」。

 常に愛情を持って、本気で向かってきてくれる人だった。「当時はよくマウンドに星野さんが来た。いつも怒られてね。一度だけ、マウンドで言い争いになったことがあった」。先頭打者に四球を出し、ピンチを招いたとき。「何やっとんじゃ!」。激高する闘将に、頭に血が上っていた与田コーチも「見れば分かるでしょう!」と応酬した。

 その試合は無事に締めくくったというが、ゲーム後、星野氏とのハイタッチを拒否。ベンチで監督会見を行おうとしていた星野氏の目の前で、並べられた椅子をすべて蹴り倒し、ロッカーへと去ったこともあった。今となっては笑い話だが、そんなことがあっても、闘将はストッパー・与田を信頼し、可愛がり、手塩にかけた。

 楽天での指導者の道も、きっかけをつくってくれたのは星野氏だ。「星野さんは、責任の取り方というのは、辞めることではない、選手が成績を残せるようにすることだと言っていた。自分もそう思う」。

 また1年が始まる。今も胸に生きている闘将の教えは、ごくシンプルだ。「逃げちゃいけない」-。キャンプを前に、心を新たにしている。(デイリースポーツ・福岡香奈)

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