【野球】巨人時代の清原和博が打順の質問を禁止した理由
そのシーンは今も忘れることができない。誰もが威圧されるほどの存在感があった。殺伐とした独特の雰囲気。1999年。当時、巨人に在籍していた清原和博が、報道陣に“3禁”を突きつけた場面だ。
あれは春季キャンプ前の1月。場所は清原が、自主トレを開始したジャイアンツ球場でのことだった。大勢の報道陣の取材を受けた清原は、3つの要求を通達した。1つは「ワシ」の使用禁止(当時の清原氏によると、いくら取材を受けた際に「オレ」と言っても記事では「ワシ」と掲載されていたとのこと)。2つ目は練習時にフリー打撃の柵越えの本数を数えて、それを報道することが無意味だと訴えた。
もう1つの要求が打順の“質問禁止”だった。当時、清原は「打順の話は決める人に聞いてほしい。何の不満もないし、意見をするつもりもない」と報道陣に訴えた。打順は監督や首脳陣が決めることで、自分に質問しないでほしい、というわけだ。
清原ほど打順にこだわった選手は珍しいだろう。PL学園時代、西武の全盛期も不動の4番。巨人でも4番に座ったが、競争は激しかった。常にライバル関係にあった松井秀喜、そして高橋由伸の生え抜きの主力もいた。さらに小久保、ペタジーニ、ローズら他球団の主軸打者が続々と巨人に移籍した。万全な状態ならまだしも、不振や故障を重ねた清原が4番の座を死守し続けるのは困難だった。
巨人在籍最終年となった2005年、8月4日の広島戦。本塁打を放った清原がベンチ前の“ハイタッチ”を拒否する騒動が起こった。その試合の清原の打順は7番。清原にとっては、西武入団1年目の86年以来、19年ぶりに7番に座った。発端は、打順が“降格”されたことだった。
チームの主砲=4番。その打順にこだわり続けた男。4番以外の打順に座ることもあった。打順の質問をされるのは、プライドが許さなかったのだろう。
清原和博氏の取材を通じて、いつも思っていたことがある。あの風貌からは全く想像がつかないのだが実は本当に不器用で、繊細な男だったと…。(デイリースポーツ・伊藤玄門)