誰もがその穏やかな性格を愛し、人懐っこい笑顔に魅了された。「仏のゴローちゃん」と呼ばれた遠井吾郎氏は、球団史の中でも一際異色を放った好打者だった。この「猛虎豪傑列伝」で懐かしのスターを振り返ってきた本紙評論家・小山正明氏も、遠井氏の人柄を絶賛する1人だった。
まさに「仏のゴローちゃん」やったな。おるのかおらんのかわからんような物静かな男で、彼が怒った姿なんか一度も見たことなかった。メガネの奥の目を細めて、いつもニコニコしとった。懐に厳しい球を放られても知らん顔や。そんなんやから、逆にピッチャーも投げ辛いわな。彼の温厚な性格がバッティングにいい方に作用しとったように思うね。
バッティングそのものもよかったよ。一番強烈に覚えているのは、優勝した昭和37年(1962年)の終盤、大洋と猛烈な優勝争いをしていたんやが、もうほぼ大洋にやられた‐という状況の中、国鉄との3連戦で奇跡とも言える3連勝をした。僕が先発したその2戦目やったよ。負けている展開で迎えた満塁のチャンスで打席にゴローや。彼の放ったレフトライナーを野手がポロッとやって走者一掃、逆転してそのまま勝った。それでゴロッと流れも変わった。
酒が好きで、夜の街も好きな男やった。特に酒は現役当時から強かったわな。西宮の自宅近くに『ビリーファイブ』というスナックがあって、コーチ時代によく行ってたんやけど、ゴローも顔を出してた。ところが、そこに着ていった舶来のジャケットをあいつがしょっちゅう持っていくわけや。「小山さん… これ着ていっていいですかぁ…」って調子でなあ。
外国に旅行して買ってきたやつを何着あいつに持っていかれたことか(苦笑)。僕も大きい方やけど、彼も体格がよかったからねぇ。着るとピタッときたんやろう。ニコニコしながら言うもんやから「もうええわ」とやったもんや。
山口・柳井高校から昭和32年(1957年)に入団してきたんやけど、あまり印象に残っとらんのよ。ゴローが1軍の試合に出だした翌年は、僕はプロ6年目。ボチボチ天狗になってやり出したころや。「うまいこと打つヤツが入ってきよったな」てなもんや。ただ、口数が少なくて温厚な男やな、ということだけは思ったな。
そんな性格やから、チームメートとも本当に和やかに接しとった。あれぞ「好人物」の典型やな。当時、かなり変わり者というか、個性的な選手が多かったけど、ことゴローに関しては皆が好きやったんちゃうか。先輩にも後輩にも、悪い印象なんか一つも与えてないと思うよ。人柄は本当に素晴らしかった。
天狗になってやってた僕でも、彼が打てなかったとき、文句を言うたり怒ったりしたことはなかったよ。そんな相手とちゃうもん(笑)。「三振しちゃったよ」と、愛嬌のある笑顔で帰ってくるんやから…。
65歳という若さで先に逝ってしもたのは、残念でならん。まだまだ元気で好きな酒をのんびりと飲んでほしかった。
▽小山 正明(こやま・まさあき)1934年7月28日生まれ、75歳。兵庫県出身。高砂高から53年、阪神にテスト生として入団。62年には27勝を挙げ、優勝に貢献。64年、山内一弘との“世紀のトレード”で、東京(現ロッテ)に移籍。73年の大洋を最後に現役引退。最高勝率・最多奪三振・沢村賞(いずれも62年)、最多勝(64年)。通算856試合320勝(歴代3位)232敗、防御率2・45。01年、野球殿堂入り。現本紙評論家。
▽遠井 吾郎(とおい・ごろう)1939年12月4日生まれ。山口県出身。現役時代は内野手。柳井高から57年阪神入団。オールスター出場3回(66~67、70年)。77年に現役を引退するまで、在籍20年は球団歴代最長。78年は1軍打撃コーチを務めた。通算成績は1919試合5281打数1436安打137本塁打688打点、打率・272。05年6月27日死去。
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