監督と番記者が一緒に泣いた
深い取材と大きな感動
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西武・岸をぴったりマークする和賀豊記者(右) |
2008年9月26日。西武ライオンズが札幌ドームで4年ぶりのリーグ優勝を決めた。西武担当2年目。2軍監督時代から取材してきた就任1年目の渡辺監督が、報道陣の前で初めて涙を流していた。そこで私はある異変に気づいた。決して西武「ファン」ではなかった自分の目から、今にも涙がこぼれ落ちそうになっていたのだ。
プロ野球各球団の番記者は、ほぼ毎日チームと行動を共にし、取材をする。選手の好調の秘けつは何なのか、などを試合の原稿に盛り込めるかどうかが勝負。初めは堅苦しい会話でも、何度も話をしていくうちに「本音」を話してくれる場合もある。人間だもの、こうなると多かれ少なかれ、取材対象に感情移入してしまう。「この人の記事を書きたい」。私にとって、渡辺監督もその1人だった。
リーグ優勝の約1年前、渡辺監督が就任会見を終えた夜だった。私は監督の自宅に行き、どんなビジョンを持っているか尋ねた。返ってきた答えは「プレッシャーからの解放」だった。26年ぶりのBクラスに終わった2007年。勝たなければ、あるいはミスをしてはいけないというプレッシャーが若手中心のチームには合わなかった―。指揮官はそう考えていた。
そして2008年。失敗しても責めず、伸び伸びしたスタイルを導入した。シーズン中、首脳陣同士で指導方針を巡って激しい口論がなされることもあった。それでも自らの考えを貫き、中村ら、若手の才能が開花し、チームは優勝した。
思い上がりかもしれないが、2年間を共にした渡辺監督と苦労を分かち合ったという気持ちが、万感の思いを呼んだと思う。指揮官の泣き顔を目に焼き付け、迷わず優勝原稿には「男泣き」と書いた。後日、渡辺監督に「ありがとう」と言われた時は、担当記者冥利(みょうり)に尽きる、と心から思った。
有事が起これば休みが飛ぶ。土日・祝日はほとんど出勤。勤務時間だってナイターもあればデーゲームもあるし、規則正しいとは言えない。さらにプロ野球の担当記者はナイトゲームの取材が多いため、締め切りとの戦いがシビアだ。あまりの緊張感に、思わずキーボードを打つ手が震えることもある。
正直、体にも心にも優しい仕事とは思わない。それでも、自分の書いた記事によって、読者が喜ぶのを感じる感動は何にも代え難い。原稿を書くスピードもまだまだ遅いし、取材も「あれを聞いておけば良かった」といつも後悔する。外勤記者経験2年の私でも、この喜びは、そんじょそこらのものではないと断言できる。
09年から担当チームが変わり、北海道日本ハムファイターズが私の主戦場となった。スポーツの現場で触れた人間ドラマの数々。もっと深い取材をすれば大きな感動を伝え、私自身にも得られるはずだ。まだまだこの仕事の奥は深く、おもしろい。
【2005年4月入社・大阪本社編集局整理部配属。07年東京本社編集局報道部に異動してプロ野球・西武ライオンズ担当。09年から北海道日本ハムファイターズ担当 】 |